両側嗅覚情報の統合

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 嗅覚による空間情報の処理に関する知見をまとめる.ヒトは視覚優位の動物であり,主に視覚によって環境の認知を行うが,多くの動物では嗅覚が重要な役割を果たす.例えば,犬やげっ歯類など嗅覚が発達した哺乳類や,ガ類では視覚よりもむしろ嗅覚によって空間を把握し,匂いを手掛かりに目標まで到達することが知られている.最近の研究から,ヒトも高い嗅覚能力を持つことが分かってきており,ここでは嗅覚による空間情報の獲得に関わる知見を整理して解説する.匂いの識別機構や匂い源探索機構に関する詳細は取り扱わない.


嗅覚

 視覚における光の波長や聴覚における音の振動数などと異なり,一般に匂いを説明する単一の物理量はなく,ヒトでは約350種類の嗅覚受容体によって,匂い物質のさまざまな特徴が捉えられ,化学信号は電気信号に変換され脳へ伝達され,処理をされて匂いとして知覚される.単一の匂い物質は通常複数の受容体を固有のパターンで活性化させ,それぞれの受容体の下流の神経回路において,特定のニューロン群によるさらなる情報変換を受ける.この特定のニューロン群は,球状の糸球体 (glomerulus) と呼ばれる構造を形成している.一般的な匂いは,多数の受容体を活性化させるため,フェロモンなど,動物にとって重要な匂いについては,専用の処理系が用意されている.例えばガにおいては,種に特異的で種内の交信に用いられる化学物質(性フェロモン)を高感度で受容するフェロモンの受容体と,これを処理する神経回路が用意されている.匂い分子は空間上に塊(プルーム)を作り,各々のプルームは複雑な挙動を示すが,昆虫をはじめとした陸上動物は,脳においてこれらを巧みに処理することで匂い源へ定位する.


両側嗅覚入力と行動

 動物には,匂いを感知するための感覚器官が左右一対存在し,両側の嗅覚情報を使ってより適応的な振る舞いをみせる.ヒトが両眼によって立体視を行い,両耳によって音源定位を行うように,両方の鼻を使って匂いの方向性をある程度知ることができる.以下行動レベルにおいて,これまでに明らかにされている知見を動物種毎に記述する.

 ヒトでは,左右の鼻孔への匂い入力を制御した実験によって,左右の匂いの時間差を弁別できることが報告されている.こうした研究に対して拘束下における人工的な条件であるとの批判があったが,最近自由行動下で,視聴覚を遮断した状態で,ヒトが匂いの軌跡を追跡できることが報告されている (Porter et al., 2007).この際,鼻孔にマスクを取付け,気流を制御する実験を行い,(i) 吸気孔が2つで右側を右の鼻孔,左側を左に鼻孔に送る場合(両側の鼻孔の気流を維持した状態)と,(ii) 吸気孔が一つで,途中で気流を分割し,両側の鼻孔へ気流を送る場合(嗅覚入力の左右差を無くした状態)において,匂いの追跡能力を比較した.この結果,(i) のケースの方が匂いの追跡の成功率が高く,ヒトは両側の鼻孔の入力を利用し,空間の情報を捉えていることが分かった.

 心理学的な実験からも,脳が左右の匂い情報を独立して捉えることが分かっている.視覚では,左右の眼に異なる視覚刺激を与えると,両方の刺激を同時に知覚することは出来ず,また認識する物体が周期的に交代する両眼視野闘争 (binocular rivalry) という錯覚が知られているが,嗅覚においても同様の心理学的現象が起こる.つまり,左右の鼻孔に異なる匂い刺激を与えると,どちらかの匂いのみが知覚され,周期的に交代する.このことからも左右の鼻孔である程度独立した情報処理が行われることが分かる.

 ラットも,同様に鼻孔の入力を比べ,匂いが左右どちらから来たかを識別することができる.異なる二種類の匂い刺激を左右から提示し,報酬と関連付ける実験を行った結果,ラットはおよそ一呼吸でこの識別を行っており,匂いを何度か嗅いで比較するというよりは,同時に嗅いで左右の情報を比較する,といった並列処理を行っていることが示唆された.また,ラットを含めげっ歯類は,空間に対応した認知地図を持つことが知られているが,地図形成においても,匂いが空間の手掛かりとして重要な役割を果たすことが知られている.

 魚類は左右の鼻孔間の濃度差を処理し,匂い源探索を行うことが知られている.最近イヌホシザメMustelus canisでは,鼻孔間の匂いの時間差を利用することが報告された (Gardiner & Atema, 2010).匂い物質を直接左右の鼻孔に,時間差をつけて送り込むことにより,数百ミリ秒以内の時間差であれば,後から100倍の濃度の入力があったとしても,最初に入力が入った方向へ曲がることから,時間差によって匂いの定位を行うことが示された.

 昆虫では,ショウジョウバエ成虫および幼虫・アリ・ゴキブリ・ガなどの昆虫において左右の触角情報を統合することが知られている.いずれの場合においても片方の触角のみで匂い源への定位が可能であるが,両側触角の情報を使うことでより効率的な匂い源定位を行う.ガ類では性フェロモンを受容した直後に,旋回を伴わない直進運動およびプログラム化されたジグザグ運動を組み合わせ,種間でおそらく共通した匂い源定位戦略が採られている (Kanzaki et al., 1992).カイコガBombyx mori では,直進運動からジグザグ運動への移行の際,両側の触角への入力の濃度差と時間差を識別し,旋回行動 (turning behavior) の方向性を決定しているということが分かってきた.

 両側の刺激に時間差がある場合に関して,前述のサメでは最初に入力があった方向に旋回を行うが,カイコガでは遅い時刻に入力がある方向へ旋回を行う.こうした行動戦略の差異は,それぞれの動物が生息する環境に起因すると思われる.例えば,水中と空気中における匂いの分布パターン,体サイズ(両側の嗅覚器官の距離),移動手段(歩行・飛翔・遊泳・匍匐),移動速度の差異等に応じ,それぞれの動物種が,環境に適応した独特の戦略を用いていると考えられる.


匂い嗅ぎの効果

 哺乳類・鳥類・爬虫類・両生類は,呼吸によって匂いを嗅ぐ (sniffing).動物の生理状態によって呼吸のパターンは変化するため,同一個体でも匂い嗅ぎのパターンは変化する.ヒトでは,匂いは吸気の際によく知覚され,吸気量が大きくなるとより精確な匂いの弁別が可能となる.快適な匂いを嗅いだ場合には吸気が増大し,不快な匂いを嗅いだ場合には減少する.また,匂いをイメージするだけでも,匂い嗅ぎのパターンが変化することが知られている.

 これまでにフェニルエチルアルコールなどのある種の匂いは,ヒトが左右の鼻孔を使って,左右を弁別できるとする論文と,できないとする論文が報告されてきたが,この矛盾に対し,実験手法の差異による解釈が提案されている.即ち,呼吸に合わせて積極的に匂いをサンプリングさせる場合(被験者が嗅ぐ場合)では,被験者は匂い刺激の時間差を弁別でき,反対にチューブを鼻孔内に挿入して受動的に匂いを提示した場合には,時間差を弁別できない.ヒトが能動的に嗅ぐことが,嗅覚能力を向上させ,通常気づかない空間情報を取得させるようである.

 げっ歯類では,新奇な匂いや,学習課題における匂いのサンプリングにおいて,通常2Hz程度の呼吸が4-12Hz程度に上昇することが知られ,呼吸の頻度の変化が匂いの知覚に影響を及ぼすことが示唆されている.ヒトの匂い追跡能力を評価した研究においては,トレーニングによって次第に効率が高まる過程で,相関して呼吸の回数が増加することから,左右の鼻孔への匂いの時間差の弁別における,匂い嗅ぎの重要性が指摘されている.


両側嗅覚入力を処理する神経回路

 嗅覚は神経解剖学的にも特殊な感覚である.ヒトでは鼻腔の粘膜下にある嗅上皮 (olfactory epithelium) で匂いを受容したニューロンが嗅球 (olfactory bulb) という神経回路に至る.嗅球で同じ受容体を持つ神経が同一の小領域(糸球体)に収束し,糸球体を単位とした処理が行われた後に,直接大脳皮質内の嗅皮質 (olfactory cortex) に至る.嗅覚以外の他の感覚の処理系においては,大脳皮質に至るまでに必ず視床を経由することから,嗅覚の処理が特殊であると言える.なお糸球体構造は種間で保存され,収斂進化によって相似な性質を獲得したと考えられている.

 ヒトが両側の鼻孔の情報を統合するメカニズムについて,機能的核磁気共鳴画像法(functional magnetic resonance imaging, fMRI) を用いた研究が行われている.この研究では,被験者に匂いを嗅いでもらい,その際の脳血流量の変化を計測する.匂いの質に関わる情報は,後頭回 (occipital gyrus) 等において処理されるものの,匂いの方向性については,上側頭回 (superior temporal gyrus) において表現されることが分かった.上側頭回は,視覚と聴覚の定位にも関わる領域であることから,同領域において,異種感覚情報が統合され,空間情報への変換が行われると考えられている.

 げっ歯類を用いた研究では,嗅皮質中で最大の梨状皮質 (piriform cortex) や,最も吻側の前嗅核 (anterior olfactory nucleus) において両側情報の統合に関わる研究が進められている.嗅皮質は基本的に同側の嗅球から入力を受けるが,嗅皮質において左右半球間の連絡路が存在し,左右嗅覚情報の統合が起こり,この領域で両側の入力を処理するニューロンが存在する.特に前嗅核外側においては,左右の匂いの強度差に依存した応答を示すニューロンが発見され,この領域で左右の鼻孔の匂いを比較する処理が行われていることが示された.

 昆虫における両側嗅覚情報の統合に関する神経生理学的な研究はあまり行われていない.昆虫では哺乳類の嗅上皮に対応して触角が存在し,嗅球に対応して,やはり糸球体構造によって構成される触角葉 (antennal lobe) と呼ばれる領域で嗅覚情報の処理が行われる.ショウジョウバエDrosophila melanogasterなどの昆虫では嗅覚受容細胞が両側の触角葉へ軸索投射を持つが,その他の昆虫では触角葉は同側の触角からの情報のみを受ける.その後の両側嗅覚情報の統合機構は未知であるが,ガでは触角葉では同側の匂いにしか応答を示さないものの,出力先である前大脳側部 (lateral protocerebrum) では,両側の嗅覚情報を処理するニューロンが存在する.ショウジョウバエの幼虫や線虫 Caenorhabditis elegansでは,匂い情報を一時的に記憶する神経機構の存在が推察されている.


まとめと今後の課題

 動物は左右に対となる嗅覚器官をもち,匂いの空間情報を用いて適応的な行動を示す.この際脳は,左右の感覚情報をまず独立に処理し,続く神経回路において統合する.左右情報を統合する回路機構,さらに異種感覚との統合を経て行動決定に至る神経基盤は未知である.軟体動物と脊椎動物の眼光学系が収斂進化によって相似性を持つように,嗅覚系の神経回路も相似性を持つ.動物の脳と行動および動物が生息する環境について,種間の比較による方法論が,両側嗅覚情報の統合機構の理解に有用であると考えられる.


参考文献

  • Gardiner JM, Atema J (2010) The function of bilateral odor arrival time differences in olfactory orientation of sharks. Curr Biol 20:1187-1191.
  • Kanzaki R, Sugi N, Shibuya T (1992) Self-generated zigzag turning of Bombyx mori males during pheromone-mediated upwind walking. Zool Sci 9:515-527.
  • Porter J, Craven B, Khan RM, Chang SJ, Kang I, Judkewitz B, Volpe J, Settles G, Sobel N (2007) Mechanisms of scent-tracking in humans. Nat Neurosci 10:27-29.

並木重宏  東京大学


(2017.12.04 改訂)