「ナビゲーション:方向と距離を知る」の版間の差分

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2009年5月30日 (土) 00:15時点における版


動物は、生活の様々な場面で方向や距離を知らなければならない。例えば敵が近づいてきたとき、敵の方向と距離を瞬時に計測し、逃避するか攻撃するか、行動を決定する。対象物が餌や異性などの資源であった場合にも、方向と距離の情報は重要である。すべての動物は方向と距離の情報を処理し利用しているといえるが、なかでも、遠距離の目標に定位する動物の方向と距離の計測能力は多様である。動物は方向と距離を知るために、種々の外部環境の情報や運動感覚に基づいた情報を使う。


定位

 動物は、空間内の特定方向に体軸を定め、一定距離を移動することで目標や目的地に到達する。この行動を「定位」と呼ぶ。目的地に動物が直接知覚できる明確な対象物が存在する場合、動物は対象物と体軸がなす角度によって目的地の方向を知ることができ、また対象物がもつ刺激の強度などの属性によって目的地までの距離を知ることができる。しかし、目的地が遠距離にあった場合、すなわち目的地自体を直接知覚できないときには、動物は目的地に関係する間接的な対象物や自己の運動を知覚することで、方向と距離を推定しなければならなくなる。このような遠距離の定位を、特にナビゲーションと呼ぶ。遠距離を移動するナビゲーターは、方向を知るための「コンパス」と、距離を測るための「距離計」を備える必要があるのである。

 遠距離を移動する動物には、渡りや回遊として良く知られる鳥類魚類の他にも、哺乳類爬虫類両生類などの脊椎動物から、海中を鉛直移動するプランクトンや海底を季節移動するエビカニなどの海産無脊椎動物まで、様々な種が知られている。その中で、最も多様なコンパスと距離計に関する研究成果が報告されているのは、昆虫類である。ナビゲーションを行う昆虫が、どのようなタイプのコンパスと距離計を利用しているのかについて以下に紹介する。


視覚コンパス

 昆虫が利用する代表的なコンパスは視覚情報を利用したものである。網膜上に映し出される像と空間における方向とを関連づけたものが視覚コンパスである。昆虫は、太陽や月、空の偏光パターンなどの天空の視覚情報を主にコンパスの基準として用いることが知られている。

太陽コンパス

 太陽の方向を基準として定位方向を決定するシステムが、太陽コンパスである。昆虫の太陽コンパスの発見は、スイス生まれの科学者Felix Santschi (1872-1940) によってアリを使ってなされた(1911年)。彼は鏡を使って太陽の位置を変えるとアリが定位方向を変化させることを示し、昆虫が天空の情報を定位の手がかりとしていることを初めて証明した。それ以降、雪上を移動するトビムシから、渡りを行うチョウまで、昆虫の様々な種において太陽コンパスの報告がなされた。

月コンパス

 夜間のコンパスの基準となりうる明瞭な視覚目標としては、第一に月が考えられる。しかし、月コンパスを利用すると考えられている昆虫は、アリヤガなど一部の昆虫に限られており、太陽コンパスに関する報告に比べて多いとはいえない。これは、研究例が少ないという理由の他に、新月といったように、晴れた夜間に必ずしも月が観測できるわけではないなど、月がコンパスの基準点として利用しにくいことが考えられる。

偏光コンパス

 太陽や月をコンパスの基準点にした場合、雲や木々の葉などがその点を覆い隠してしまうと、コンパスの情報が使えなくなってしまう。しかし、もし空一面に基準となる模様が描かれているなら、それはより有効なコンパスの基準として利用できるだろう。空の青色は、太陽光が大気中の微小な粒子によって散乱されることで作り出された色であり、散乱によって振動面が特定の方向に偏るため天球上のそれぞれの場所によって直線偏光成分の比率に違いが生じている。つまり、天球上の偏光成分は、太陽を中心として同心円上のパターンを描いて空に分布しているのである。この偏光の成分比の違いを基準として定位方向を決定するシステムが偏光コンパスである。我々ヒトは、偏光を弁別できる視細胞をもっていないため偏光コンパスを使うことはできないが、ミツバチサバクアリは、視細胞の光受容部位の特徴的な構造によって偏光コンパスを用いることができる。

その他の天空コンパス

 夜間においても月光が天空で散乱されることにより、太陽光によるものと同様の環状の直線偏光パターンが天球に作り出される。そのため直線偏光を検出できる視覚器をもつ動物では、夜間にも偏光コンパスを利用できる可能性がある。月の偏光コンパスを利用する動物はこれまで、糞を転がして移動するタマオシコガネでのみ知られている。

 また、渡りを行うヤガは、月のない晴れた夜にも特定の方向に定位できる。その定位方向が時間毎に一定角度で変化することから、このは時間補正のない星コンパスを使う可能性が考えられている。


視覚以外のコンパス

 視覚情報以外の情報を使ったコンパスも報告されている。ミツバチは餌場の方向を示すダンスを踊る際に、コンパスの基準として地磁気を利用する。地球の磁場は、北極と南極付近にそれぞれS極とN極という両極性を持つ。その地場がなす磁力線は極付近で密になり極から離れるに従って疎になるために、磁力線密度は赤道付近で最も疎になり地球の外側に広がった形になる。そのため、磁力線は赤道付近では地面に対して平行に、それ以外の地域では斜めになっている。このような磁力線がもつNS方向と、地面と磁力線がなす角度(伏角)といった特徴の2つを、動物はコンパスの基準として利用することができる。すなわち、我々が方位磁石として利用するような磁力線の水平成分を利用する極性コンパスと、磁力線が地面となす角度を基準として南北を決定する伏角コンパスである。昆虫では、ゴミムシダマシが伏角コンパスを使って定位することが知られている。

 特定方向から安定して風が吹くような環境では、風向に対して目的地の方向を知ることができるかもしれない。ある時間帯に一定方向から風が吹く砂漠に棲んでいるサバクアリは、風向を基準にして自らの定位方向を決定する。アリは触角の基部にあるジョンストン器官で風の方向をモニターしている。


距離計

 目的地の方向さえ分かれば、距離を知らなくても動物は目的地に近づくことができる。ナビゲーターは目的地の方向に定位し、目的地が直接知覚できる場所で移動をやめればよい。しかし、そのような方法では、方向推定がわずかにずれただけで、目的地を通り過ぎてしまう危険性があるだろう。特に巣などのように、目的地が空間上の小さな点ほどのサイズになる場合は、距離情報を得ることが重要になる。昆虫では、ミツバチアリが、餌場や巣へ定位するときに、目的地までの距離を測っている。

 昆虫においては2つの主要な距離計が確認されている。ミツバチでは、飛翔によって消費されたエネルギーから飛翔距離を推定しているという「エネルギー消費仮説」が古くから支持されてきた。しかし現在では、エネルギー消費ではなく、オプティックフローによって距離を推定していることが実験的に証明されている。我々自身も感じることであるが、動物が移動する場合、景色は自らの移動に合わせて網膜上を後方に規則的に流れる。ミツバチは複眼を移動する周囲の景色の速さから、自らの飛翔速度を評価して距離を割り出す。一方、地表を徘徊するサバクアリは、全く異なった距離計を使う。アリは何歩歩いたかをカウントする歩数計によって距離を測るのである。

 遠距離を移動する動物が自分の移動距離をどのようにして計測しているのかについては、十分明らかになっているとはいえない。これからの研究によって、未知の距離測定機構の存在が明らかになってくるであろう。